歴史と仏様

十王堂

十王堂と呼ばれているこのお堂は冥界にあって、死者の罪業を裁判する十人の王である十王像です。皆様もよく知る閻魔大王はこの十人の王の一人です。十王経は道教で説いている冥界の教えで、平安後期にわが国に伝わり、鎌倉時代に大流行したといいます。そのころに多く作られ人々の信仰の対象に成りました。
当山の「十王堂」は神社の遺跡で天文年中(1532~1550室町東山時代)に同郡の城主家に於いて祖先の霊を合祀再興ありしと言い伝えてられていたが、天正10年(西暦1582年)本能寺の変があった年に当山に移され天正16年5月(西暦1588年)にお堂が建立されたという記録があります。当山長福寺はもともと新保村にあり、天和3年(西暦1683年)に現在の地に移転しました。「十王堂」は明治14年6月改築、明治30年5月焼失、同年10月再建という記録があります。
いま安置されている厨子は平成十八年復興工事の施工業者である「社寺工舎」により寄贈されました。


咳の婆さん

この優婆尊者は、当山で昔から「咳の婆さん」と呼ばれ、あがめられていました。
不治の疫病の百日咳などの喉の厄病を和らげる尊者として親しまれてきました。
戦前まで、「咳の婆さん」と「十王堂」を御祭りして当山で6月15日に舞台も建ち、賑やかにお祭りが執り行われておりました。今ではお祭りも行われなくなりましたが、当山の「大般若会」の5月15日にご開帳しております。


川流れ地蔵


天保7年丙午年(西暦1836年)8月14日はお盆の前日だというのに信州路は大荒れに荒れ、長岡は大洪水に襲われ、諸方の堤が切れるという大騒ぎであったと川西古文書に記録されている日である。
その14日に当山得聚山長福寺の檀家で当時蔵王の永井沢右エ門は刻々に増してゆく水嵩を心配して信濃川の堤に立ち、川の様子を見ていた。その目の前に、子供にしては大きい体と思われるものが浮き沈みして動かない、助けられるものなら助けたいと、危険を冒して引き上げてみると、お地蔵様であった。
沢右エ門は喜んで自宅に運び、床の間に安置して朝夕礼拝供養に勤めた。しかし毎夜の夢は安らかでなかったので、当山に引取りを願ってきた。
当寺の住職、当山十二世梁山全棟大和尚はその願いを受け入れて当山に安置して、寺来代は変わっても常に供養に勤めてきた。
そもそもこのお地蔵様は六道能化の菩薩様で慈悲深く子供の霊魂を護ると昔から広く信じられて、皆に川流れ地蔵と呼ばれ多くの幼子を持つ親から子供の無事生長と安穏を祈願されてきたのであります。
また当山二十五世古峰雪厳大和尚の時に2回に亘り市内の仏師栗林大蔵氏より極彩色を施されております。
えんぎの木版に昭和39年初夏に斎藤迪信しるすと記載があります。


戊辰戦争の歴史を色濃く残すお寺

当山長福寺は戊辰戦争、慶応4年1月(1868)から明治2年5月(1869)まで続いた幕末の戦いの遺跡を残しています。当山の本堂には、官軍と長岡藩の激戦を物語る鉄砲の残痕が柱に残っている。
長岡藩の河井 継之助は長岡城奪還作戦の際の激戦で当山に駐屯していた官軍を退却させ、当山の参道と長岡城に向かう街道の筋交いにて被弾したと口伝されている。新町地区の住民有志により元当山参道と街道の場所に継之助被弾の地の立て札が建てられている。
また当山には、官軍の信濃佐久篠ノ井の田野口藩(維新直前に龍岡藩に改名)戦死者3名が当山で供養され今も静かに眠っている。


餓死人萬霊塔

長岡を襲った飢饉は、廷宝2年頃(1674)、宝暦5年頃、天明4年頃(1784)と天保6年頃(1835)の飢饉が知られている。
天保の飢饉では、天保元年と同4年が凶作で、天保6年と翌7年が大凶作であった、食べ物が無くなって家を捨てて物乞いする行倒れ者と多くの餓死者が出た。
長福寺の餓死人萬霊塔は天保8年(1837)に長岡市内の行倒れ者と餓死者が集められ、天保飢饉の犠牲者供養のために建てられ、長福寺で供養が執り行われてきました。餓死人萬霊塔の碑は18世祥雲鳳瑞大和尚の筆による。
得聚山長福寺山主 合掌


高野栄幹の碑

長岡藩士、名は永貞、通称は秀右衛門、栄軒は号である。
小出晩翠に学び、伊藤東所と交友し古義学に精通した。古義学が藩学となったのは、栄軒の指導によるところが多い。
7代の藩主に使え、恪勤精励、吏務はたくみであった。人材の養成を重んじ、文学を楽しみとした。永享4年(1747)家老山本老迂齋の命を受けて、藩主牧野氏の家譜を修補した。
安永2年(1773)5月、81歳で歿す。墓碑銘は伊藤東所の撰文である。


当山22世道永良然(清水良然)

天保13年(1842)古志郡六日市村大字蛇山の塗師の子に生まれた良然師は、六日市龍昌寺の栗園学堂に入塾し、そののち江戸へ出て、駒込吉祥寺の学堂にはいり、非凡な学才を発揮して「小僧禅師」と異名された。
帰郷後、各寺院から招かれて仏典の講説につとめ、病に罹ってからはもっぱら文墨を友とし、幾冊かの著作があり、小栗山福生寺から長福寺に転じ、明治9年5月6日、35歳で亡くなる。


旧龍岡藩士が今も眠るお墓

本堂の弾痕と共に戊辰の戦の遺跡を残しています。
このお墓は戊辰の戦いで犠牲となった旧龍岡藩士が今も眠るお墓です。


戊辰戦争の遺墓

当墓所は慶応四年の戊辰戦争で当山長福寺がその戦いの場となり本堂に残された弾痕とともに、故郷から離れた長岡の地で命を落とした信州龍岡藩士の墓です。
戊辰の戦さの遺跡として今も当山に安置され、ご供養されています。

本光院忠山義孝居士 六月七日 福島之内筒場戦死ス 平林藤吉
天正院殿公学釼誉居士 七月二十五日 亀貝村戦死ス 鷲見又勇
霊光院空山良雲居士 七月二十五日 宮下村戦死ス 田島栄之助

長福寺記録にて

戊辰の戦では長岡藩、官軍、多く人の命が失われた、
戊辰の戦いで命を落とされた方々すべてのご冥福を願いこの碑を記す。

平成二十五年七月吉日
中越地震の復興に伴ない改修

当山二十七世 玉峰良全 合掌